「島国」という意味をもつ「耽羅」は、済州のかつての名前だ。済州道に耽羅が建国された過程については、「三姓神話」で知られる「耽羅開国神話」に詳しくある。考古学的な観点からアプローチしたければ、三陽洞先史遺跡を訪れるとよい。国家史跡416号に指定されているこの遺跡は、原三国時代にあたる紀元前3世紀頃、済州に初めて形成された大規模な邑の遺跡で、耽羅形成期(B.C.200~A.D.200)時代の社会の様子を伺えるものだ。三国時代の耽羅は、百済、高句麗、新羅と交易し、新羅と唐の連合軍によって百済が滅びた直後には、日本や唐とも外交を行うなど、海上王国としての歴史を繋いでいった。
済州の歴史
韓国では、学校で済州の歴史について学んだことのない人はいないだろう。それほどに済州道は、歴史の大波に揉まれてきた地でもある。三国時代から高麗、朝鮮時代を経て日帝強占期、そして激動の現代まで、済州の歴史をたどってみよう。
千年の歴史、耽羅
「耽羅」が「済州」へ
古代の海洋国家、耽羅が独立国としての位置を失ったのは、高麗の肅宗10年(1105)のことだった。高宗(1213~1259)の時代に入ると、「海の向こう側の大きな郡」という意味の「済州」という名に変わった。高麗時代の済州の代表的な遺跡は、三別抄に関するものだ。済州島は高麗時代、反モンゴル抵抗運動の主力軍として活躍した特別部隊、「三別抄」の最後の激戦地となった。高麗の政府軍と三別抄軍が交互に海岸に積んだ環海長城や、三別抄軍が駐屯していた遺跡がある。三別抄軍は涯月に、防御施設のみならず宮闕や官衙(役所)をも備えた缸坡頭里城を築いて、高麗とモンゴルの連合軍に立ち向かったが、高麗元宗14年(1273)に陥落した。その後済州は高麗の末期、崔瑩将軍がモンゴル軍を討伐するまで、モンゴルの支配の下に置かれることとなった。セビョルオルム、ウェドルゲ(岩の小島)、幕宿、ボム(虎)島などが、崔瑩将軍と牧胡軍(モンゴル族)が激戦を繰り広げた高麗時代の遺跡だ。
一息で染みになる「島流し1番地」
済州は高麗時代から、流配地に使われてきた。高麗を服属させた元王朝は三別抄軍の征伐直後から済州を直轄地として、数度に渡って盗賊や罪人はもちろん王族や官吏、僧侶までをも島流しの刑に処した。済州がS流配地として本格的に利用されだしたのは朝鮮時代に入ってからのことである。朝鮮時代の500年間、200名以上がここに島流しにされたが、王族や外戚、両班や学者をはじめ、盗賊や国境を越えようとして捕えられた罪人まで、その階級は実に様々だった。李氏朝鮮500年間を通じ、済州で罪人として過ごした多くの人々が済州に与えた影響も決して少なくなかった。その代表的な人物の1人が、秋史・金正喜(キム・ジョンヒ)だ。彼の有名な絵画である歳寒図と秋史体(字体)は、ここで完成された。大静邑の安城里に、彼が過ごした家(秋史適居地)が復元されている。
3邑9鎮25のろし台(烽燧台) 38煙台
朝鮮時代、済州は500余年もの間、済州牧、旌義県、大静県に区分され、3邑体制で統治された。それぞれの邑ごとに城を築き、城の中に役場や建物が入っていた。国家教育機関の郷校も、邑ごとに1校ずつ設立された。そして日本軍を退けるための徹底した防御体系も備えていた。済州の全海岸の要衝に囲まれた環海長城、オルムの頂上や海岸に設置されたのろし台や煙台、防護所として設置された鎮城などは、朝鮮時代の防御体系が分かる遺跡だ。防護所は禾北鎮、朝天鎮、別防鎮、涯月鎮、明月鎮、遮帰鎮、摹瑟鎮、西帰鎮、水山鎮の9の鎮で、全ての鎮に城が築かれた。のろし台は山岳を連結し、煙台は海岸線を結ぶ通信手段で、25ののろし台と38の煙台があった。防御施設の遺跡は、済州の至る所に多く遺っている。
平和をかみしめるために4.3を知る
1948年済州は、韓国現代史史上最大の悲劇とされる4.3事件に見舞われた。数万人が犠牲となり、130以上もの村々が焦土と化した。4.3事件は、7年間も済州道の全地域を巻き込んでいった。それだけに島には、4.3事件の傷跡がない所の方が少ないほどだ。しかし、いまや済州道は観光の島、世界平和の島として生まれ変わった。「真の平和」をかみしめるなら、平和を掴むまで済州を襲い続けてきた悲劇や受難の時代を知ろう。それを知らずしては、断片的な観光に終わってしまうからだ。済州の4.3事件を振り返り、平和と人権の尊さを伝える教育の場に活用されることを願って造成された4.3平和公園を是非訪れてほしい。